2022.11.25
現在放映中のカンテレ・フジ系の連続ドラマ『エルピス—希望、あるいは災い—』が話題の脚本家・渡辺あやさん。島根県浜田市に暮らしながら執筆をする渡辺さんは、岡山県真庭市でトマト農業に携わりながら映画づくりをする山﨑監督の『やまぶき』に「親近感」を抱いたそうです。その渡辺さんをお迎えした2022年11月8日、渋谷・ユーロスペースでの『やまぶき』上映後のトークの採録を掲載いたします。
山﨑:『やまぶき』は封切から4日経ちました。僕は初日に真庭から渋谷に来まして、連日トークをしていますが、明日また真庭に戻ります。今日は、連続ドラマ『エルピス』がたいへん話題になっている脚本家の渡辺あやさんにお越しいただいています。その『エルピス』は昨日(11月7日)の第3話まで拝見しまして、テレビであそこまで、政治や社会の色々な問題に切り込んでいるということがとても素晴らしいと思って、今日お話しできることがとても光栄です。
渡辺:ありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします。
山﨑:満席のお客さんを前にちょっと緊張しているんですが、まず『やまぶき』をご覧いただいたご感想などあれば、お話しいただけますか。
渡辺:はい。おこがましい言い方かもしれませんが、あんまり他の方の作品で感じたことのないような、親近感をすごく覚えたんですよ。この前もじつは真庭市で山﨑さんと対談させていただきましたが(11月15日付朝日新聞に掲載)、その時には何かちょっと伝えそこねているなと思っていたんです。それで、私が感じた親近感の正体は何だろう、とあらためて考えてみたのですが、この映画で描かれている、人間が持つ思想というか、人間との関係みたいなもの――その捉え方が、自分とすごく似ているということに気づいたんですよね。
山﨑:思想というのは各個人が持っている、政治的なことや社会的なものの考え方であり、関係というのはむしろ一人ひとりの生活に直接関わるような……。
渡辺:人間が、オギャーって赤ちゃんとして生まれて、そして大人になっていく。思想っていうのはその一番最後に身につけるもの、というようなイメージがあるんです。生まれてすぐはお腹すいたとか眠いぐらいしか感じない。そこからだんだん色々な感情を、やがて思考を持つようになる。そして最後に思想というものを人間は身につける。どういう思想を身につけるかは、その人がそこに至るまでにどんなことに傷ついてきたかということと深く関わりがある気がするんです。
だからその人が思想を持つ以前に知り合った人は、その人に別の手触りを持つ。大人になると、誰しも鎧を通じてしか人と出会えなくなるので、なかなか親しくなりにくかったりするんですけど、実はその鎧の奥に、柔らかな人間の部分というものがあるはずなんです。でも、そのことを忘れてしまいがちで、何か思想的なことを語られたときに、その思想をその人だとつい思ってしまう。『やまぶき』は、そういうことに対する山﨑さんの違和感を描かれている映画のように感じたんですよね。
山﨑:ありがとうございます。例えば「右寄り」の人と「左寄り」の人が、それぞれの鎧を着ているわけですが、あやさんや僕のように地方で生きていると、その鎧のためにお互いに付き合いをしない、という生活は考えられないですよね。田舎で普通に生活していると、丸一日、誰とも会わないという日もある。一人ひとりが濃ゆく関係していかないと生活が成り立たない、ということでもある。イデオロギーや思想の違いによって関係性をつくらないということができない生活の中で、思想って何なんだろうと考えていまして、それが『やまぶき』という映画でやりたかったことなんです。
一つ例をあげると、川瀬陽太さん演じる刑事と、いわゆるリベラルであろうジャーナリストの女性が愛し合って、二人のあいだに山吹という子どもを設けている、という物語の設定です。僕にとっては、全然大丈夫な設定です。でも、そこに違和感を持たれる方もおられて……。
渡辺:先日の対談でも仰ってましたよね。私が『やまぶき』で一番感銘を受けたのは、その刑事のお父さんの描かれ方です。あの歳くらいの男性が、それまで生きてきた色々な社会的な地位や職業、あるいは父親という立場を、なんとか自分という一人の人間に押し込めて、その役割を担おうとしたときに自然に表れてくる重層性や矛盾。『やまぶき』では、それが本当にそのまま描かれていることが素晴らしいなと思ったんです。そのことをプロデューサーの方にお伝えしたら、実はその父親の人物像が一番突っ込まれるところなんだと仰っていました。たしかに映画で描かれる人物に統一性がないと批判されてしまいがちなんでしょうけど、たぶん山﨑さんはご自身が思われている人間の重層性というものをそのまま描かれたのでしょうし、それは戦場ジャーナリストの女性との結婚ということにもつながるんじゃないかと思います。
山﨑:本当にちょくちょく批判されまして、毎回グサッときていたので、とても嬉しいです。さっき田舎の生活のことを話しましたけど、人と人との距離が近いぶん、一面だけでは人を捉えることができない。どうしても不意を突かれるように、見ようとは思わなくても、その人の逆の面が見えてしまう。
渡辺:見えちゃう。そうですよね。田舎で暮らしていると鎧の内側も否が応でも見てしまうし、こっちも見せてしまうというようなところがあります。だから私も、『やまぶき』はそこが「わかります」っていう感じになったのかなって。それがまた田舎の良いところでもあると思うんですね。人間が人間であるっていうことを、忘れずにいられるっていう。
山﨑:この映画は、編集のある時点から、物語というものを諦めるわけではありませんが、物語がすべてじゃないという考えになりました。物語以上に、役者さんがとても複雑なお芝居をしていることに、編集作業のなかであらためて気づいたんです。カットをフレーム単位で入れ替えることによって、登場人物の感情が現出することを発見したんです。元々、物語を語るための登場人物、というようには考えていないほうなんですけど、そこをきっぱり諦めました。刑事だけじゃなくチャンスも、チャンスの恋人も、表もあれば裏もある複雑で多面的な人間であることをちゃんと見せようと考えました。とても長い時間をかけて編集して、色々なパターンを作ったんですけれど。
渡辺:川瀬さんにかぎらず役者さんたちからは疑問みたいなものは出なかったんですか?
山﨑:ほぼなかったです。というのは、完成版は97分ですが、編集で最初に繋いだときは2時間半あったんですよ。それだけ脚本は長くて、登場人物たちの色々なバックグラウンドも描いていました。役者さんにはそれを読んでもらって撮影で演じてもらったので、たぶん役者さんたちのほうが役をわかっていたんです。役者さんたちは、彼らの技術をつかって演じ切ってくれたということなんですよね。そうやって芝居が出来上がっていたおかげで、編集に至ったところで、物語を補うためのテキストの余分なところは落とすことができた。だから、お客さんの想像に委ねる作品になっているとは思うんです。
『エルピス』第3話で「言葉」に触れられている箇所があって、今日、「言葉」ということを考えていました。僕たちは文字を書いて、それを役者さんが読んで演じるわけですけれど、言葉で伝わるものってとても小さい。役者さんの表情や感情は、文字での情報量を一瞬で超えていくということが、今回の『やまぶき』であらためてよくわかったんです。あやさんは、言葉で書いたものが映像化されるなかで、どれくらい言葉を信じていますか?
渡辺:いやあ、本当に難しいツールだなって、続けるごとに思うんですよ。先日の対談でも山﨑さんが、自分がなぜ映画をやっているかを言葉で言おうとすると、ついちょっと格好つけて、本来のことではないことも言ってしまう、と仰ったじゃないですか。そういうことが私にもあって、なるべく普段はインタビューは受けないようにしているんです。作品を作るときの動機って実はものすごくくだらないことだったり邪なことだったりするのに、インタビューという場で話すとなると、つい格好つけてしまって、そしてそれを自分でも信じてしまって、本来のあり方からずれていくっていう感覚がすごくあるんですね。それをなるべくやらないほうが良い気がしていて。自分で誤解し始めたりするので。
山﨑:まさしくそれは、第3話で長澤まさみさんが言っていた、正しいことしかしたくない、という台詞に通じる話ですね。ちょっと違うと思ったことはしたくない、という。
渡辺:正しいことを言いたいけど、言い続けていると自分が正しいような気がしてくるじゃないですか。言葉というのは、自分が考えていることを思想に落とし込める危険性もあるな、というふうに思います。
山﨑:そして、それぞれが言葉を解釈して、情報量が膨らんでしまう……。
渡辺:自分が書いた脚本でも、それを読まれる監督や役者さん、プロデューサーなど、それぞれがまったく違うイメージを持っていたりするんですよね。それで、全員で落としどころを決めていくっていう作業になるわけですが。言葉から受け取るイメージが人によってこれほど違うんだなって、日々痛感します。言葉のやり取りはいまたいへん盛んですけど、うーん、やっぱり怖いものだな、と感じますね。
山﨑:僕は、脚本を素人に毛が生えたような書き方で書いていて、僕のその拙い言葉を読んだ役者さんが、僕のイメージなんかよりもはるかに想像力たくましく演じてくれるというのがとても楽しくて。それは役者さんだけではなく、各技師たちもそうだし。それが映画づくりの僕が大好きなところです。僕がそれを整える役目を担うのでもなく、本当に自由に皆さんにやってもらうと、それで映画全体が畝ったりもするんです。編集で苦労もするんですけど。それがとても楽しいと思っています。そういう、膨らませてもよい最低限の言葉もまた大切なのかな、と考えたりします。
渡辺:そうですね。といっても一応読み物なので、何をしようとしているかは現場全体で共有されるように書きはするんですけれど。でも、「ここでこの人が泣く」というような脚本の言葉も、本当は心の中では、泣くかどうかは本人にしかわからないと思いながら書いていますね。
山﨑:「泣く」って書いていなくても泣いちゃったりしますよね。それがとても良かったりする。
渡辺:そのほうが本物なんだろうと思うんですよね。
山﨑:車の中のシーンで、和田光沙さん演じる美南の昔の夫が「親父も年とって、ああだこうだ言わせねえから。」という家父長的な台詞を言うと、和田さんがつい泣き出してしまうのですが、これは脚本には一切書いていなかったことなんです。
渡辺:ああ、そうなんですね。
山﨑:他にもお話ししたいことはたくさんありますが、そろそろ時間ですね。最初はめっちゃ緊張しましたけど、楽しく話すことができて良かったです。ありがとうございました。
渡辺:ありがとうございました。
(採録:堀理雄、構成:中村大吾)
渡辺あや
1970年生まれ。島根県在住。2003年、映画『ジョゼと虎と魚たち』で脚本家デビュー。NHK連続テレビ小説『カーネーション』。映画『メゾン・ド・ヒミコ』『天然コケッコー』『ノーボーイズ・ノークライ』。テレビドラマ『火の魚』『その街のこども』『ワンダーウォール』『ストレンジャー 上海の芥川龍之介』『今ここにある危機とぼくの好感度について』『エルピス—希望、あるいは災い—』など。